世界のバイク工場を潰した犯人は?
2017年、ホンダのスーパーカブが、生産開始の 1958年(昭和33年)から 59年の今年
累計生産台数 1億台を越える、とのことです。
日本発の技術、商品が、ロングセラー&ベストセラーというのは、誇りに思うのですが、
日本のバイク産業は、すでに30年も、右肩下がりになってしまっています。
記事 文中にもありますが、すでに 最盛期の 1割くらい、
つまり、9割減という事態です。
こんなことになってしまった 根本的な原因は、メーカーの技術とか、会社の問題ではありません。
メーカーも、おそらく 法的制裁を恐れて 発言しないのでしょう。
ズバリ! バイク王国陥落の原因は、国会と警察と泥棒です。
法律は、国会で審議され、通るものです。
そして、警察は バイクにもうるさく駐車禁止の取り締まりをするようになりました。
そのくせ、バイクの盗難の検挙は ほぼ無気力か? 申告の受付をしたまま、ほぼ進まない・・・
そんな お寒い現状。
加えて、バイクは危険だ、というマインドコントロールも、見逃せない。
バイク通勤は、労災が面倒なので、禁止という会社も多い。
仕事で乗るスーパーカブ以外は、まるで バイク自体が 犯罪者扱いです。
渋滞と駐車場難の解決策として、バイクで動いていた人々は、
盗難には気をつけなきゃいけない、駐車場は 現地に行くまで、空いているか?
もわからない。
駐輪場に入れられなければ、やむなく近くに駐車するしかないですが、
そうなると、駐車違反で 1回9000円の反則金です。
このように、安心して駐輪できない、乗っていけない環境に貶められてしまった、
というのが、最大の原因です。
一方、地方では、すでにクルマ社会で、ほとんどの場所は、駐車場完備。
となれば、ヘルメットをかぶり、安全のために長袖着用など、クルマより手間のかかるバイクに乗るより、
クルマ移動となってしまいます。
バイクに乗るのは、本当にバイク好きな人だけ、というパターンです。
さらには、北海道や東北をはじめ、1年のうち、雪でバイクに乗れない期間がある地域でも、
車検は 全国一律です。
乗れない期間も、情け容赦なく、経費がかかり続けます。
まさに、バイクは、虐げられた移動手段といえます。
ここまでの状況で、まだバイクに乗ろう、というのは、
相当熱心なバイク好きでなければ、心が折れてしまうのです。
かくして、日本は 世界のバイク工場が、本当に
海外輸出主力に変わってしまったのです。
もはや、若年層自体も減少中なので、国内は細々、海外に市場を求める以外、ありません。
日本国内で、バイク再興は、夢物語以外でしか、ないのです。
今や、ライダーの主力も、40代~50代。
昭和60年頃の バイクブームに 若い頃、感化されていて、
乗り続けているか?
趣味として、再び乗りたくなった人々です。
この世代が、乗らなくなってしまったら、いよいよ日本のバイク産業も、瀕死でしょう。
私には、ローマ帝国との交渉段階から、徐々に勢いを削がれ、滅亡してしまった カルタゴと
日本のバイク界が、相似形に見えてなりません。
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2017/10/17 Web NHK より
http://www3.nhk.or.jp/news/business_tokushu/2017_1017.html?utm_int=detail_contents_tokushu_004
(経済部記者 早川俊太郎)
猛獣の子? スーパーカブ
街なかを行き交うどこか昭和の雰囲気が漂うおなじみのシルエット。それが「スーパーカブ」です。昭和33年に生産を開始。来年60周年になるスーパーカブは今月、1つの大きな節目を迎えます。世界で累計1億台の生産を達成するのです。1億台は世界のオートバイ史上初の快挙だそうです。
ところで「カブ」って、どういう意味でしょう? 英語で「猛獣の子ども」という意味です。エンジンは小さくてもパワー抜群!ということでしょうか。そこに、さらに「スーパー」をくっつけたのです。時代を飛び越えた新しいものという思いが込められているといいます。
ヒットのわけは そば屋とスカート
昭和33年に発売されて、すぐスーパーカブは大ヒット。当時、日本のオートバイの年間販売台数は30万台ほど。そのうち、カブが16万7000台を占め、驚異的な売れ行きを記録。日本の戦後復興と高度経済成長を支える足になったのです。
ヒットの理由は、これまでにない性能と斬新なデザイン・機能でした。
その1つが、ホンダの真骨頂であるエンジン性能でした。馬力はライバルの50CCのオートバイの2倍以上。燃費はリッター90キロ以上と他を圧倒。故障も少なく“二輪革命”とまで呼ばれました。
もう1つがデザインなどの工夫です。スカートをはいた女性が乗ることを考えて、足をあげて座席をまたがずに乗り降りできる、ママチャリのような独自のデザインを考え出しました。
また、その当時のそば屋の出前が、おかもちを左手に持ちながら運転できるようにと、左側にあるのが普通だったウインカーの操作レバーを右に移しました。さらに手を使わず足だけでギアのシフトチェンジができるシステムも導入しました。
カブに込めた宗一郎氏の思い
このように使いやすさに徹底的にこだわったスーパーカブ。実は開発を指揮したのはホンダの創業者、あの本田宗一郎氏でした。ちなみにカブは宗一郎氏が開発に関わって、今なお現役の最後の製品でもあります。
開発の合言葉は「日本人が求めているものを作る」。
戦後の暮らしを少しでもよくしようという思いが込められていました。当時を知る人の話では、宗一郎氏は、毎朝のように設計室に顔を出し、新しいアイデアについて、年齢や部署に関係なく議論したといいます。
時には、宗一郎氏がチョークを手に描き始めた設計図が黒板には収まりきらず、床にはみ出したことも。それを見ようと、また人だかりができて新たな議論が始まる…自由闊達(かったつ)なホンダの社風を表すワイガヤ(ワイワイガヤガヤ会議)の原型といえる雰囲気が、スーパーカブの開発に見られたということです。
カブ愛好者の熱い思い
スーパーカブは、発売から60年近くたった今も、実はスタイルも性能も、当時とほとんど変わっていません。60年前のホンダの雰囲気がどことなく伝わってきます。
そんなスーパーカブの生産1億台を特別な思いで迎える人たちもいます。
東京・大田区の創業90年を超える老舗そば屋のおかみ、河高利子さん(73歳)もその1人。
「スーパーカブはそば屋に向いている」という宗一郎氏の発想をもとに、発売直後、広告用の写真撮影が行われたのが河高さんのそば屋だったのです。広告がきっかけに出前用のオートバイとして普及しました。
当時を振り返りながら河高さんは「発売当初からスーパーカブを使い続けています。ゆかりある乗り物が多くの人に愛されてうれしく思います」と話していました。
スーパーカブの走りに魅せられたファンも数多くいます。
100人以上の愛好家グループ“水戸藩カブ”のリーダー阿久津尚さん(82歳)がその1人。およそ40年前、通勤のために初めてスーパーカブを購入。今はカブを13台も所有する熱烈なファンです。
「独特のエンジンの振動が心地よく、乗っているとバイクと会話をしている気分になります。デザインも合理的で、美しく、これだけ完成したものを作った当時の技術者たちは本当にすごいと思います」と話していました。
カブはどこに向かう
日本の高度経済成長とともにオートバイ販売は右肩上がりで拡大しました。しかし、昭和57年に329万台に達し、ピークとなったあとは、自動車の普及などで市場は縮小に転じ、去年の販売台数は33万8000台と10分の1に落ち込みました。
そうしたなか、ホンダが小さな名車「モンキー」の生産を終了。ヤマハ発動機がクラシカルなデザインが人気だった「SR400」など15車種の生産を終了したほか、川崎重工業も5車種の生産を終了するなど、寂しい話題が続いています。スーパーカブも例外ではありません。国内販売はピークの88万台から、去年は3万台にまで減少しています。
それでも売り上げを伸ばし続けているのはスーパーカブの海外での存在感です。世界では去年、なんと320万台も生産しているのです。中でもタイやインドネシアなど東南アジアでの販売は圧倒的です。
ベトナムではオートバイのことを「ホンダ」と呼ぶそうです。スーパーカブは、ミャンマーやバングラデシュなどでも販売を伸ばしていて市場をさらに広げています。
およそ60年にわたり、ほぼ変わらぬスタイルで現役を続けるスーパーカブ。本田宗一郎氏と技術者たちの熱い思いをいまに伝える「猛獣の子ども」は、アジアの足として、この先も、経済成長を支えていくことになります。
- 経済部記者
- 早川俊太郎
- 平成22年入局
横浜局、岐阜局、名古屋局をへて
現在 自動車業界を担当